「……」 アイリスは公爵の城の一室で、一人窓の外を眺めていた。 彼女に与えられたその部屋は豪華だったが、どこか物悲しい静寂に満ちている。 窓の外に広がるのは、オルフェウス公の領地。──灰色の霧に沈む崩れかけた、古城の塔。 ──嘆き続ける石像たちが佇む、静寂の庭園。 ──空には星々が輝いているが、それは太陽の暖かさを知らない冷たい光の瞬き。風も吹かず、鳥も鳴かず、動くものは何一つない。 美しく、そして空虚な世界。時が止まったまま、忘れ去られた絵画のようだった。アイリスはその景色を見ながら、公爵のあの虚ろな瞳を思い出していた。 『──私の心を苛むこの『呪い』の謎をお前が解き明かしそしてこの私を永劫の苦しみから解放してくれたならばの話だがな──』 ふと、窓の外の空虚な景色を見つめるアイリスの脳裏に、公爵のその最後の言葉が蘇る。 公爵は確かにこう言った。自身の心を蝕む呪いの謎を、解き明かせと。 「はぁ……」 アイリスの唇から、思わず深いため息が漏れた。──どうすればいいというのだろう。 永い時を生きる大公爵の心の呪いを、自分のようなただの娘が解き明かすことなど。 しかしそれを成し遂げなければ、許可はおりない。 この国に滞在することも、王子の花嫁になることも許されない。 そのあまりに途方もない試練の重さに、彼女はただ胸を痛めるばかりだった。そもそも『呪い』とは、一体全体何なのか。 アイリスには見当もつかなかった。──彼女は公爵と別れる前の、最後のやり取りを思い出す。 『あの……公爵様。その『呪い』とは、一体どのようなものなのでしょうか』 アイリスのその問いに、公爵はただ虚ろな瞳で彼女を見つめ返した。 そして静かに、こう答えたのだ。 『分からぬ。──それすらも忘れてしまったのだ』 その言葉を思い出しアイリスは、再び深いため息をついた。 呪いを解けと言いながら、その呪いの正体さえも忘れてしまった。これでは手がかりが何もない。 アイリスは完全に途方に暮れてしまうのであった。だが、公爵はひとまずこの城に滞在することは、許してくれた。 ジェームズたちが言うには、これも公爵の気まぐれの一つなのだろうと。つまり今の目的は、この城に滞在する間に、公爵様の忘れてしまった『呪い』の正体を見つけ出し、そしてそれを解くことだ。アイリ
アイリスの、そのあまりに真っ直ぐな言葉が、部屋の静寂に突き刺さった。彼女の指摘は、オルフェウス公の心の最も柔らかな部分を的確に抉り出したのだ。部屋を支配していた凄まじい魔力の圧力が、ぴたりと止む。しかしそれは、嵐の前の静けさに過ぎなかった。「……」オルフェウス公は、静かに怒っていた。その美しい貌から表情は消え、ただ氷のような無表情がそこにあるだけ。だがその瞳の奥では、紫色の炎が渦巻き燃え上がっていた。それは今までアイリスが見た、どんな怒りよりも深く、そして根源的な魂の激怒だった。ジェームズの骨の身体、アイリスを守るようにして前に立ちはだかり。リリーの半透明の姿は、恐怖で今にも消えてしまいそうに薄くなった。あのカイルでさえ顔から血の気を失い、その手をそっと腰の剣へと伸ばしている。誰もが息を殺し、公爵の次の一言をただ固唾を飲んで待っていた。永い永い静寂が。部屋を支配した。従者たちは、公爵の怒りに満ちた魔力に身動き一つ取れずにいる。アイリスだけが、その中でただ一人、静かに彼を見つめていた。やがて彼女は、ぽつりとそう漏らした。「公爵様。あなたは今、お怒りですね」公爵は何も答えない。ただその瞳の奥の紫色の炎が、さらに激しく燃え上がった。アイリスは一歩、彼に近づいた。彼女の声に、震えはもうない。「──その怒りこそが、貴方が感情を捨てきれていない何よりの証拠です」彼女は、公爵のその美しい顔をまっすぐに見つめ、言葉を続ける。「もし本当に全てが無意味だとお思いなら、私の言葉など虚しい戯言として聞き流せばよいはず。貴方が怒るのは、私が触れたその『忘れてしまう何か』を、心のどこかでまだ尊いと信じているからです」その言葉は鋭い刃のように、公爵の虚無の鎧を貫いた。彼の周りに渦巻いていた魔力の圧力が、ほんの一瞬だけ弱まる。その美しい顔に、初めて困惑の色が浮かんだ。「その大切なものを守るために、貴方の心は怒りという感情を必死で作り出した。それはとても……尊いことだとわたくしは思います」彼女の言葉に虚を突かれたように、オルフェウス公はその紫水晶の瞳を大きく見開いた。「──ほう」そして次の瞬間、その永い間ただ虚無だけを浮かべていた唇の端が、ほんの一瞬だけ皮肉な笑みの形に吊り上がる。その、ほんの僅かな変化を見逃す者はいなかった。「おい
そのあまりに虚無的な公爵の言葉に、アイリスたちはただ立ち尽くす。彼の言う通りなら、自分たちのこの行動も想いも、全てが無意味だということになってしまう。最初に沈黙を破ったのは、意外にもカイルだった。「おいおい、公爵様よ。あんたが百年後忘れるかどうかなんて、俺たちの知ったこっちゃねえな。姫様はあんたの許可が必要だから、ここに来た。俺たちは王子に命じられたから、ここに来た。ただそれだけだ。意味があろうがなかろうが、やるべきことをやる。それじゃ不満かい」 あまりに単純明快な答えに、公爵は初めてアイリスたちをまともに見た気がした。 「ただ今を生きるか。それも一つの形だろう。だがいずれ悟るだろう、無意味な繰り返しだとな」「……意味がないなんてそんな悲しいことをおっしゃらないでくださいまし」 今度はリリーが言う。「私達は確かに今ここにおります。例え死んでいても、その心も、私達のこの気持ちも決して、無意味ではございません」「感情か」公爵は虚ろに呟く。「それこそが最も早く色褪せる幻」二人の言葉は、公爵のその分厚い虚無の壁を崩せない。そしてジェームズが、静かに、しかし力強く続けた。「公爵様。失礼ながら申し上げます。我々には王子様への忠誠という使命がございます。使命を果たし、この国の歴史を紡ぐこと。それこそが我々の存在意義。決して無意味ではございません」「使命」公爵は静かに笑う。「それもまた、いずれ忘れ去られる虚飾に過ぎん」カイルの現実。リリーの感情。ジェームズの忠誠。そのどれもが、公爵のその分厚い虚無の壁を崩すことはできない。アイリスは、そのやり取りをただ何も言えずに見つめていた。彼らの言葉は、決して公爵の心には届いていないのだと悟りながら。「では、公爵様。わたしに許可は、いただけないということでしょ
カイルが放ったその一言に、アイリスたちの身体が完全に硬直した。──か……彼は今なんて言ったのだろう。この領地を治める大公爵を前にして、今なんて……?アイリスの顔からさっと血の気が引いていく。しかし当のカイルは、全く気にした様子もなく、さらに言葉を続けた。「いやマジですごいぜ。ここまで見事に陰鬱で、救いのない場所を作り上げるとはな。どんな精神してりゃ、こんなもんが出来上がるんだか。あぁ、勘違いしないでくれよ、褒めてるんだぜ?一秒だって住みたくはねえけど」不敬な言葉が最後まで紡がれた瞬間だった。「カイル!貴様!」「公爵様になんてことを!」ジェームズとリリーが、文字通り飛びかかった。ジェームズが背後からカイルの腕を羽交い絞めにし、リリーがその半透明の手で彼の口を力任せに塞ぐ。「むぐ……!?な、なにしやが……んむぅ~!」二人は必死の形相で、これ以上カイルが何かを口走るのを防ごうとしていた。アイリスは顔面蒼白になりながら、慌てて公爵の前へと進み出た。そしてその場で、土下座でもするのではないかというほど、深く頭を下げる。「大変申し訳ございません公爵様!私の従者が数々の無礼を……!どうかお許しください!」ジェームズとリリーも、カイルを押さえつけたまま、必死にそれに続いた。「誠に申し訳ございません!」「この馬鹿は後で私達がしっかりと躾け直しますので!」相手は冥府の国の公爵なのだ。その魔力は、単なる死者のそれとは違う。世界を形作る原初の力を持ち、悠久の時を生きた大公爵。自分たちなど、その気になれば指先一つで塵に還されてしまうだろう。アイリスはそう思いなが
そこに現れた青年──オルフェウス公爵は、まるで人の形をした哀しみの結晶そのものだった。その髪は永い冬の最後の雪のようにどこまでも白く、そして清らか。その肌は血の気というものを全く感じさせない、磨き上げられた大理石のよう。あまりにも完璧に整った顔立ちは、この世のどんな芸術品よりも美しく、そして神々しい。「……っ!」アイリスは人ならざる美貌に、ただ心を奪われた。しかし、その美しい貌を見つめているうちに、彼女は気づいてしまう。彼の瞳の奥に渦巻いている、深い絶望と、魂の渇きに。彼はただ美しいだけではない。その存在そのものが、一つの壮大な悲劇であると、アイリスは直感的に理解した。やがて、竪琴を奏でていた白く長い指が、ぴたりと止まる。そして彼はゆっくりと、物悲しい瞳をアイリスへと向けた。その唇からこぼれ落ちたのは、もう何百年も誰とも話していないかのような掠れた、そしてどこか虚ろな声だった。「王子から話は聞いている。ようこそわたくしの城へ……生者の娘よ」その時、それまで静かにしていたバディがアイリスの足元から、ふわりと駆け出した。そして、何故かオルフェウス公の足元へとじゃれつくようにくるくると楽しげに回り始める。やがてバディは、満足したかのように再びアイリスの足元へと戻ってくると、そのまま床に安心しきったように、ぺたりと寝そべってしまった。(もしかしてバディは……わたしをここまで導いてくれたのかしら?)アイリスは不思議な光景に、そう思わずにはいられなかった。彼女は意を決して、公爵へと向き直る。そして、生者の国で遠い昔に学んだ作法に則り、純白のドレスの裾をそっと持ち上げ、恭しく一礼した。「オルフェウス公爵。何のご挨拶もなく、かくも突然御前をお騒がせいたしますこと、何卒お許しくださいませ」凛とした声で、アイリスは言葉を続ける。
アイリスは無数に響く未完の旋律の中から、その一つの音色だけを追いかけた。セ間違いない。これは城門の前でも聞いた、母が歌ってくれたあの歌だ。「この曲だけ……しっかり聞こえますね」他の旋律が生まれては泡のように消える中で、この歌だけが公爵の心の奥底でかろうじて形を保っているのだろう。その優しいメロディにアイリスは、思わず口ずさみそうになる。歌は美しいクライマックスへと向かっていく。だがその一番美しい旋律の直前で、やはりその曲もぷつりと消えてしまった。「あっ……」どうしてここでやめてしまうのだろう。ここからが、一番素敵なところなのに。アイリスは名残惜しさに、小さく溜息をついた。その時だった。「……?」くるくると楽しげに踊っていたバディが、不意にその動きを止めた。彼は何かに気づいたかのように鼻をひくひくとさせると、鋭く吠える。「わんわん!」そして次の瞬間バディは、矢のような速さで音楽室から、飛び出してしまった。「あ……バディ!?」アイリスは驚いて叫ぶ。そして、彼を追いかけようと夢中でその後を追った。ジェームズたちの制止の声も、彼女の耳にはもう届いていなかった。「姫様!お一人で動かれると危険ですぞ!お待ちください!」ジェームズの制止の声が後ろから聞こえる。しかしアイリスは止まらない。青い光の塊となったバディの姿だけを、夢中で追いかけた。「わぉーん!」「バディ、待って……!」彼女が駆け抜けるのは、永い時が止まったかのような、物悲しい回廊だった。壁にかけられた巨大なタペストリーは色褪